INTERVIEW
06
未知なる感動の
届け先が耳か口かの違いだけ。
音楽業と生ハム職人は一緒
八ヶ岳食工房
加藤公貞
代表
九州から東京、世界へ。
出会いが最高の宝物
-これまでの経歴を教えてください
生まれは大分、育ちは福岡の九州男児です。音楽業界には1980年に、当時ケンウッドのレコード部門だった「トリオレコード」の福岡営業所でアルバイトとして働いたのが最初ですね。そしたら翌年、東京勤務のチャンスをいただき、六本木のオフィスで正社員として働くことになりました。でも声をかけてくれたボスが辞めることになり、自分もどうしようかと・・・。その時期、仲がよかった日本フォノグラムの友人に誘われ転職したのです。
最初は国内アーティストの宣伝/制作でしたが、やがて国際部へ。海外出張も多く、そのときにアメリカ・ニュージャージーで出会ったのがボン・ジョヴィのジョン・ボン・ジョヴィ(ボーカル)とデヴィッド・ブライアン(キーボード)。1983年のことでした。そして翌年、『Bon Jovi(邦題は『夜明けのランナウェイ』)』でデビュー。プライベートでは今でも付き合いがあって、もちろん日本公演のときは観に行きますよ。
その後1991年に、今でも親交が深い同い歳の仕事仲間が当時ワーナーでプロデューサーをしていて、「社内に新しい部署を作るから手伝ってよ」と声をかけてもらったんです。彼には恩義もあったし、面白そうだったので移籍しました。
当時を振り返ると、1984年ごろには音楽チャンネル「MTV」が台頭。日本でもミュージックビデオが注目されるようになり、私はワーナーでそういった映像関係の仕事もやるようになりました。ミュージックビデオの巨匠、ウェイン・アイシャム監督のところに勉強を兼ねて丁稚奉公に行かせてもらったこともありましたね。
やがて私が目を付けたのは、国内のインディーズシーン。1998年ごろには女性社員と私と2人でインディーズの部署を社内に立ち上げ、下北沢の小さなライブハウスなどに足を運ぶようになったんです。同時に、ワーナー内部にあったマネージメント部署も担当するようになりました。在籍していたクラムボンの4枚目アルバム『id』を、知り合いでもあったタヒチ80の名盤を手掛けたアンディ・チェイスや、マイス・パレードのアダム・ピアースを共同プロデューサーに迎えて、ニューヨークでレコーディングしたりしましたね。
2010年代後半に入ると、音楽はデジタル化が進むとともに業界もシュリンクしていきました。同時に私自身の限界も感じて、そろそろ潮時かなと。あとは、やはり生ハム作りを本気になって一からやりたいという気持ちが大きかったです。食肉加工は会社員時代から趣味でやっていて、「売ってほしい」という声もいただいていましたから。そうして「八ヶ岳食工房」を立ち上げたのが2011年です。
-シャルキュティエ(食肉加工職人)になったきっかけは?
まず食への興味ということに関しては、音楽業界にはグルメな方が多かったので自然と私もおいしいものが好きになりました。皆さん「あそこのあれがおいしい」という話をよくしていて。しかも私の場合は国際部での仕事も多かったので、出張先の外国人スタッフと一緒に現地で有名なレストランなどへ連れて行っていただき、舌が鍛えられましたね!
一方個人的には、1983年ごろに仲間内で八ヶ岳に山小屋風の家を建て、そこで週末に集まって遊んでいたんです。当初、よく作っていたのがベーコン。アウトドア料理本を読んで勉強もしていました。もちろん趣味ですがだんだんとエスカレートして、次はソーセージだと。でも肉を腸に詰める「ソーセージ・スタッファー」は当時国内にはなかったので、アメリカへ出張に行ったときに探して買って来ました。
食肉加工を数年趣味でやっているうちに「生ハム」に興味が沸いてきました。ヨーロッパ出張の際に生ハムを食べて、イタリアとスペインで味が違うぞと。じゃあそれは何が関係しているんだろうと思って成り立ちなどを調べると、豚の種類や製法だけでなく塩の違いも大きいことがわかりまして・・・。
そんな流れで、いつしかシャルキュティエになれればと楽に思っていました。もちろん当時は、食肉加工の仕事には難関を極める国家資格が必要とは知る由もありません。ある日、管轄の保健所へ相談に伺ったところ、担当の方から「生ハム、ソーセージなど食肉製造加工販売を行うためには『食品衛生管理責任者』の資格が必要です。お持ちですか?」と聞かれました。当然そのような資格は初めて聞き、ショックを受けましたね。
資格の条件は、大学の医学系学部を卒業し国家試験をパスすれば自動的に付与というものです。もちろん私は対象外。ならば一から講習を受けて試験をと・・・。とはいえ、講習会は数年ごと不定期で開催。参加資格は3年以上現場を経験しかつ、資格保持者の推薦が必要だったのです。また、受講料も高く講習期間も40日ほど。このような条件をどうにかして乗り越えられる方法を保健所の方に相談し続けて3年が経ったころ、助言をいただき講習会に参加できることになり、晴れて資格が取れました。
-八ヶ岳食工房のこだわりを教えてください
イタリアにはイタリアの、スペインにはスペインのおいしさがある。ならば、自分は日本ならではの生ハムで一番になりたいと思いました。食べて比べて、本を読んで研究して、自分でも作っては食べて、と。突き詰めて行き着いた答えが、シンプルなものほど素材で味が劇的に変わるということです。そして改めて、“塩”の重要性に気付かされました。
国内外の塩を10種以上吟味して、これだ!と思ったのが南国系の海塩。ミネラル分が多いため、甘みが豊かで肉との相性も抜群です。いろいろ試した中で採用したのは、「クリスマス島の塩」と、沖縄の「青い海」と「宮古島の雪塩」。日本は島国ですから、海塩のほうが味になじみがあるという側面もあります。
もうひとつ着目したのは麹。肉のたんぱく質を麹菌で分解させてアミノ酸をつくることで、日本ならではの旨味豊かな生ハムを作ろうと。これによって肉質はやわらかく、塩分も落とすことができて食べやすい味になるのです。麹菌を使った生ハムは、いまだにほかでは作られてないと思いますよ。
-ゴールデンマスタードと出合ったきっかけは?
スキーで有名な信州白馬の「ホテルシェラリゾート白馬」です。そこの金澤光久総料理長と親しくさせていただいていて、レストランの生ハムを作らせてもらっているんですね。ある日、シェフから料理を教えてもらえる機会があり、そのときに「ブレザオーラ」という牛肉の生ハムを持っていったんです。そしたらシェフが「このままでもおいしいけど、オススメのソースがあるよ!」と。それがゴールデンマスタードだったのです。
素晴らしい相性で、感動的においしかったです。すぐさま気に入り、金澤シェフに欲しいと言ったらゴールデンマスタードの北山社長を紹介していただいて。それが2019年の末か2020年の頭ですね。いまや、「HIFUMI」ソーセージなどのコラボレーション商品もやらせていただき、お世話になっています。
-ゴールデンマスタードならではの活用法を教えてください
ゴールデンマスタードも和の素材を使っていますから、うちの麹を使った商品とも相性がいいんです。ましてやソーセージやハムといった加工肉にマスタードという組み合わせは定番ですから、ぜひいろいろな組み合わせで楽しんでいただきたいです。
肉だけでなく魚にも合いますね。刺身の醤油代わりに使うと、シンプルにそのよさがわかります。マスタード自体は欧米の調味料ですけど、ゴールデンマスタードは洋食にも和食にもばっちり。汎用性に優れた、最高の調味料だと思います。
本音で語れる
真の友だちが大事
-加藤さんのように第二の人生を歩もうとしている人にアドバイスをお願いします
私の今はシャルキュティエですが、どんな道でも志が重要です。自分の信念を曲げずに貫き通せば、必ずいつか花開きますよ。もし脱サラをするのであれば、辞めてからではなく会社に勤めている間に計画したり、動いたりしたほうが絶対にいいです。立ち上げてすぐに利益が出るとは限りませんし、初期投資もかかりますから。定期的な収入があるうちに、できることはやっておいたほうがいいですね。
本業のかたわら、サイドビジネスをする形もありますが、私は本気でやるなら一本に絞り、とことん突き詰めたほうがいいと思います。あと、自分を振り返って思うことは、友だちがすごく大事だということ。友だちというのは、本音で話してくれる人です。ときには否定したり叱ったりされることもあるかもしれませんが、相手のことを思って真剣に言ってくれているなら伝わるはず。逆をいえば、本音で語り合えない、いいことしか言わないというのは“楽な関係”ですから、真の友だちではないかもしれません。
-今後の展望はございますか?
今(2021年)、65歳ですけど、あと10年もすると体力的にどうかな?とは思いますね。「八ヶ岳食工房」という会社としては、跡継ぎに託すのか、それとも大きい企業と組むのかなど、いつか考えるときは来ると思います。でも、より多くの人にうちの商品を食べていただきたいと思っていますし、たとえばECで海外に販売するなんてこともできたらいいなと。
振り返れば音楽プロデュース業も生ハム職人も、根本的にやっていることは同じなのです。まだ知られていない感動を、音で耳へ届けるのか、食で口に届けるのかの違いがあるだけで。大きな視点で考えると、日本の食料自給率を上げるための活動もしていきたいと思っていますが、突き詰めるところはおいしさの追求。そして、「八ヶ岳食工房」のファンの方をいっそう増やしていきたいですね。
八ヶ岳食工房